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N0.7 正・速・力 (せい そく りょく)

正・速・力、という教えは、昔、武道の修練の上で使われた、3段階に分けた修行の目的を言います。
「正」とは、ひとつひとつの技や師の教えを、厳正(きびしく、正しい事)に、正確(正しく間違いがないこと)に、生気(正しい心。正しい意気。天地の間にあるという、正しく大きな力)に、そして、大きなモーション(動き)で行う事をいいます。技の正確さと大きな動作は、その技に合った体力作りも、同時に行っています。「守・破・離」の守の段階です。
次に「速」とは、正しく大きく練習をした技に、無駄な動きを省(はぶ)いた技に、スピードをつける事をいいます。速度を極め(スピードに集中して練習を重ねる事)迅速(じんそく:非常に速い事。すばやい事)に、速攻(すばやく攻撃をする)できるように修練する事をいいます。「守・破・離」の破の段階です。
そして最後の「力」とは、正確さに、速さを加えた上に、パワーという力強さを加え、さらにパワーアップさせ、技を完成レベルまで精進させる事をいいます。力強く、力闘(りきとう:力いっぱい戦う事)出来る精神も高めていきます。「守・破・離」の離の段階です。
正・速・力は、1950年代の武道の指導では、非常に重んじられてきた教えでしたが、1960年代に入り、トーナメント形式が日本全国で大きく普及し、武道を伝道することから、勝利に向けて指導をするといった指導法へと師の姿勢までもが移行してしまった為、「守・破・離」という言葉が、教えが、消えつつあります。このことは、現代の空手が抱えている、大きな問題であります。

平野清久

No.6 「信・念・行」 (しん・ねん・ぎょう)

「信・念・行」という言葉は、人が何か新しい事を「いざ始めよう!」とする前に、その目標を達成するための、心構えから実行に至るまでの段階を意味します。
「信」とは、新しく自分の目標にチャレンジをする前の心構えというものが、まずは大事であり、自分の新たなチャレンジに対しての姿勢を正し、必ず達成するのだ、と心の中で強く信じる事をいいます。
次に来る「念」とは、自分で立ち上げた目標から、自分の心の中で信じている達成に向かって、達成をするというゴールを心に描き、意識的に繰り返し、反復していく事によって、「信」を念じてもっともっと深い決意にしていく、という第二段階目の事をいいます。
そして最後の「行」とは、「信」で地固めをし、「念」で意識の中で育(はぐく)んできた自分の目標を、ついに行動に移す、という実行に踏み出す段階の事をいいます。
昔の人は新しい何かを始める前に、必ず心の中で、準備をし、モチベーションを固め、氣を高めて、初めて実行に移したものです。そうして始めた事に対しては、責任感というものが必ず本人の根底にあるものです。やり遂げる、とか、責任を持って、とか、昔の人が汗水たらして頑張れたバックグラウンドには、「信・念・行」があったからでしょう。
大きなハワイの木を、思い浮かべてみて下さい。しっかり根が張った太い木と、大きくなびく枝と、葉っぱの大きいこと、大きいこと。
ハワイの木々のように、大きく実っていくためには、事を始める前に、「信・念・行」をしっかりと心の中で固めていく、それは非常に大事な教えです。

平野清久

No.5 出会い・気付き・心掛け

私達にはいつも新しい「出会い」というものがあります。それは人と人との出会いに限らず、季節や天気、自然など、刻々と変わっていくこの世に存在するすべてのものをいいます。
例としては、同じ人に会ったとしても、その人は昨日のその人とは違って、今日のその人なのです。
一瞬一瞬変わっていく出会いというものに気付くための心掛けというのは、二つあります。ひとつは、感謝の気持ち、そしてもうひとつは、それから何かを学ぼうとする気持ちです。
何故、感謝の気持ちが大事かというと、例えば、会った人の事が、嫌いだったり、嫌な奴だ、と感じたとします。すると、そこからは何も学べません。心に浮かんでくる事は、すべてネガティブなことばかりで、学ぶ事には一切繋がらなくなるのです。人は皆、違う物です。誰一人として、全く同じ人など存在しません。大きくパッチリとした目の人もいれば、切れ長で細い目の人もいます。高くてスラリとした鼻の人もいれば、団子鼻の人もいます。好きとか嫌いではなく、個性として人を見ると、その人の本質が見えてきます。すると、そこからは自分で習える事が沢山生まれてくるものなのです。
日々の暮らしの中でも、同じように見方を変えていきます。例えば、出掛けようとしたら雨が降ってきたとします。「雨降りか。イヤだな。」ではなく「木や草花が喜んでるだろうな。」と考えを改める事によって、雨という自然の恵みに、非常に感謝する自分へと変わることが出来るのです。
一瞬一瞬の出会いから学ぶという事、それは一生続いていきます。

平野清久

No.4 守破離(しゅ・は・り)

「守破離」とは、日本の「道」と名の付く習い事においての修行の段階を説明する言葉です。しかし「守破離」の精神は、人間の生き方すべてに通ずるものであり、企業や会社の経営において も、最先端を極める技術においても、師を敬い、伝統を基本に、新しきを取り入れ、変化、順応 して、最高を求めて精進を続けていくという、人生の基本です。

「守破離」は、「守」「破」「離」という三段階に分けられ教えられてきました。
「守」とは、師の教えを真面目に忠実に守りながら、精進して、正確に身に付けていく事です。
「破」とは、「守」で、身に付けた事に、新しい自分の見方や個性を取り入れて、創造を探求し ていく段階の事を言います。
そして最後の「離」とは、自己のこれまでの学びを集大成させて、新しい境地を我がものとする ことです。「守」で学び、「破」で広げたものを基本として、新しい境地に進む事です。

昔、伝統的には、「守」が10年、「破」が10年、離が10年と言われてきました。私はそれを現代的に変えて、「守」を1年、「破」を1年、「離」を1年、と、3年のサイクルに変え、弟子達に指導しています。
その理由は、「守破離」を3年で1サイクルにし、また次の 3年で2サイクル目をやり、そのまた次の3年、そしてそのまた先の3年と、3年サイクルを永 遠に続かせる事を指導しています。その理由は、伝統的な守破離というのは、「守」が10年、 「破」が10年、離が10年で成し遂げた後は、その人がたどり着いた「離」の継続となります 。

しかし、人間の知恵というものは、永遠に変化していくものであります。ひとつの伝統から教えられた教えにそのまま従うということは、人類の発展性に逆らうことに繋がるように考えます。だから我々は「守破離」という3年サイクルを基本に、永遠に知恵を伸ばしていかなくてはなりません。

前回の「守」は、今回の「守」とは違い、前回の「破」は、今回の「破」とも違う。そして前回の離より、進化した「離」が、今回の「離」でなくてはならないのです。
人間に誕生日や干支というサイクルがあるように、すべてのことはサイクルを永遠化し、日々精進していかなくてはならないのです。それが人生というものです。

平野清久

No.3 失意泰然 得意端然(しついたいぜん とくいたんぜん)漢文

失意泰然。
まず失意とは、望みが遂げられなかったり、当てが外れたりして、がっかりすること。泰然とは、落ち着いていて物事に驚かない様子。
すなわち、失意泰然とは、失意の時には、慌てずにゆっくり構えていなさい、という事です。

得意端然。
まず得意とは、自分の思いどおりになって満足していること。誇らしげなこと。また、その様子。 最も手なれていて自信があり、じょうずであること。また、その様子。失意の反対語が得意。端然とは、姿勢などが乱れないできちんとしている様子。

すなわち得意端然とは、一言で言うと、自己過信に陥るな、という意味です。自分が非常にプラス志向の時には、物事の本質が見えない事が多々ある。そんな時にこそ平常心になり、見極めるという事が、空手の勝負の時にも、人生においても大事な事である。

また、経営にあたっては、良い時は淡々としていて、悪い時にはどっしりと落ち着いている、つまり良い時も悪い時も落ち着いて事に対応する。
得意のときに驕(おご)り高ぶることなく、失意の時にはゆったりと構えていなさいという意味で、山岡 鉄舟の和歌「晴れてよし、曇りてもよし富士の山 もとの姿はかわらざりけり」も、同じ事を意味します。

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、山岡 鐵舟、子爵、天保7年6月10日(1836年7月23日) - 明治21年(1888年)7月19日)は、日本の武士・幕臣、政治家。剣、禅、書の達人としても知られる。

平野清久

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